らくごのあらすじじてん うぇぶ せんじよせ
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さあ!
このページは2025年12月8日に更新されました。
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【きょうの茶噺】

カンヅメ明けの北鎌倉。その高ぶった解放感でそこらへんのお寺に足を延ばしたのですが、そこでびっくり。◆その寺は光照寺といいます。藤沢遊行寺、時宗の末寺だそうです。一遍上人ご一行が踊り念仏を唱えて鎌倉に入ろうとしたら、時の権門、北条時宗に入府を阻まれ、しかたなく小袋谷に野宿したそうです。その場所がいま光照寺となっている地。時宗ゆかりの地だそうですが、この人たちは北条時宗に毛嫌いされながらも、おのが宗門をなぜ時宗と称したのか。ふしぎです。まあ、時宗と称したのは江戸時代に入ってからのことのようですが。◆光照寺の小さな山門はクルス門と呼ばれるそうです。江戸時代、潜伏キリシタンを檀信徒としてかくまったんだとか。踊り念仏はどこか世俗から逸脱しているように見えましたが、なんとまあ、フトコロ深いのですね。ご法度のキリシタンをしれっとかくまっちゃうのですから。「鈴ふり」の豪気ぶりは伊達ではありませんでした。朝、なにげなく立ち寄った光照寺で、この宗門への見方が変わりました。◆さて、その後。上の写真をご覧ください。山門に掲げられた家紋。この紋章は、ラテン語のⅠesus Hominum Salvator(人々の救い主、イエス)の頭文字ⅠHSが意匠化されているのだそうです。ホントかなあ。中川クルス(久留子)といわれる紋章です。豊後(大分県)岡藩の藩主、中川家の替え紋。第二の家紋なのですね。なんでそんなものが光照寺にあるのか。◆江戸時代、光照寺の南西に東渓院という臨済宗の寺がありました。岡藩第三代藩主の中川久清(1615-81)が娘の菩提を弔うために建てたのだとか。明治初年の廃仏毀釈運動で廃寺となり、山門だけが近所の光照寺に移されたのだそうです。それが光照寺のクルス門。クルス紋が掲げられているのですね。日本には十字架を意匠化したクルス紋が27種類あるそうです。これはそのひとつ。◆光照寺の潜伏キリシタン云々の話とは別に、近所の寺から移築されただけのこと。光照寺のキリシタン隠匿とクルス門とのかかわり。中川クルスから中川家は潜伏キリシタンだったのかどうか。このふたつはしょせんは別物だったのでしょう。でも、なんでこんなに符合するのか。微妙に絡み合っているような気配も漂います。ここから先はよくわかりません。うーん。なぜかひかれます。

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不思議な構図の歌麿の春画


